2006-08-17 [J]
■ ハゲを生きる―外見と男らしさの社会学
読んだ。いやぁ面白い。
特にツボだったのは、ハゲ批判の際に「ことさら髪型修正や態度の不自然さが取り上げられる」ことから、背後にある社会的な意味の存在を読み解いてる点。
ハゲは身体に関する本人にはどうすることもできない不可逆的な変化であると信じられている。現代の我々の社会において、これをあからさまに笑うという行いは、本人に対して失礼であるばかりでなく、外見で他人を差別するとか本人には克服不可能な問題をあげつらうという「残酷で、かつ卑しい行為」である。これを認めると、笑っている自分自身の対外イメージが大きなダメージを受けてしまう。そこで彼らはハゲた人を笑うとき、嘲笑の対象をハゲという外見から髪型修正や態度の不自然さなどの克服可能な問題に還元して、自らの姿勢や心持を正当化してるともいえるだろう
いわゆる、『ハゲは嫌いじゃない、ハゲを気にするのが嫌い』という奴ですな。
ハゲに関する他者認定の特徴について考察されている部分も面白い。
頭髪の薄い人が髪の毛を横分けにし、それを整髪料で固めたら髪の毛の多い人に比べて不自然に映るかもしれないし、見る人によっては「薄毛をつくろうため」と解釈できるかもしれない。しかし”一人前の社会人”が髪の毛を横分けにするのは、極めて常識的な髪型のひとつである。また、それを整髪料を用いて整えるのもごく常識的な身だしなみのひとつである。「大西」氏には何故それが「薄毛をつくろうため」と分かるのか。「大西」氏が目にした例は、隠蔽のための髪型修正かもしれない。しかし、それ以外の解釈も充分可能なはずである。何の疑いもなく「ハゲをつくろうため」と解釈する彼女の認識と、それに対して何の疑義も唱えない他者の認識に、ハゲに関する他者認定の特徴を見出すことができるだろう。
「バーコード髪」であるからといって、必ずしも「薄毛をつくろうため」とは限らないにも拘らず、何故か「バーコード髪」であることをもってして「薄毛をつくろうため」と勝手に解釈する人がいて、さらに、「ハゲを気にするのが嫌い」と思われてしまうんだから、たまったもんじゃないですな(笑)
「バーコード髪」に対する他者からの解釈について考えてると、唐沢俊一の育毛通にあった『ハゲを気にしてバーコード頭にするより、所ジョージのように堂々と短髪にするほうが目立たない(似合う)』という記述*1を読んだ時に感じたことを思い出す。
確かに、短髪で地肌と色が似ている金髪にしてしまえば、薄毛は目立ちにくいだろうとは思う。
が、逆にそこまでハゲに似合う髪形にしているって事は、それなりに気にしている可能性も高いんじゃないか? バーコード頭がココまで『みっともない』と思われているのにもかかわらず「その髪型」にしてるのは、むしろ外見に無頓着(気にしていない)なだけの可能性もあるんじゃないか? とか思ったり。
ハゲた人に要求されがちな「堂々とした髪型」をいくつか挙げると、所ジョージがやっているような「短髪(金髪)」以外にも「坊主頭」や「スキンヘッド」があったりするが、それらの髪型は、場合によっては他者に「威圧感」を与えたり「軽い」印象を持たれたりするので、職種によってはその髪型を選択できないと言う事もあると思われる。
そう考えれば、バーコード髪は(不自然でカッコ悪いかもしれないが)無難な髪型とも言えなくない筈なんだけど、なぜか「いじましい」「往生際が悪い」と捉えられてしまうんだよなぁ……
<堂々とする>価値観(を、押し付けられ続けること)についての記述も面白い。
我々の社会には「ハゲは女性にもてない」という信念が広く定着している。またそれは外見的な劣等性の代表とさえ考えられている。ハゲは、それをどうにかしないと、何かにつけ話題にされ、一方的にからかわれ屈辱を経験するもととなってしまう。しかし、ハゲをどうにかしようとする修正的行為は。それじたいが<堂々と>していない証拠、ウジウジしたこととして解釈され、価値づけられてしまうのだ。
うーん。まさしく八方ふさがり(笑)
いや、おいらもかなーり毛が薄いので、面白がってる場合では無いのですが(苦笑)
あと、ハゲに対しての、ジェンダー論的アプローチや、からかいの社会学的分析とかも面白かった。
そんな訳で、ハゲてる人にもハゲてない人にもオススメの一冊デス。
*1 うろ覚えなんで正確じゃないですが
薄毛で不自然に見えない髪形と言うと、竹中直人あたりも挙げられますね。
竹中直人も坊主頭ですよね。金髪もやってたっけ。